最近気になること
私周辺での最近の関心事にPA化かAB化かというのがあります。この件に関する文章を2つ上げておきます。
勿嘗糟粕(そうはくなむるなかれ)という価値観
「勿嘗糟粕」は長岡半太郎が残した書で、同門の人からすれば、どれだけ擦ったネタを持ち出すのかと思われるかも知れませんが、私達が学生時代に教わった価値観は結局これに集約されます。糟粕(そうはく)は酒かすのこと。つまり酒を搾った後の残りカスで、他人が美味しいところを取った後の残りカスみたいな研究はするなという戒めです。自ら醸造、つまり創造するところから始めよということです。これは基礎研究だけでなく例えば商品開発でも、他社が作った既存の市場のおこぼれを取りに行くようなことはせず、新たな市場を拓く気概でモノ作りをせよという意味にもとれます。
もう随分前のこと、がん遺伝子の研究でラスカー賞を受賞した先生の学生向け講演会がありました。講演後に院生が「これから有望な研究分野は何ですか」と質問したのですが、私達は鼻白む思いでした。なぜなら、既に功成り名を遂げた老研究者の言に従っていたのでは決して創造的な研究はできないからです。むしろ、その先生がある分野が有望と答えたなら、その分野には決して入らないのが、私達が受けた教育です。
舶来品と同族嫌悪
舶来品を有り難がるのと国産品推しは同じメンタリティの表現型違いで、同族嫌悪と「日本すごい」も同じ穴のムジナです。ヒトが社会性の生物である以上、価値ニュートラルは有り得ないのですが、その偏見に行動をコントロールされるのはいただけません。しかも多くの場合、後付けの理屈を看板に立てることにより、偏見は他者だけでなく自分自身の意識からも見えないように隠されます。つまり、行動の起点が偏見であっても、自分は客観的に選んだのだと思い込めるのです。
同族嫌悪と「日本すごい」が出てくる穴は、自己肯定です。同族の足を引っ張ることで自分の価値を相対的に上げるのが同族嫌悪。日本人であるだけで自分にも価値があると思い込見みたいのが「日本すごい」。この表現型の違いは、自分との心理的距離に依存しています。近ければ貶め、遠ければ礼賛する。つまり普段テレビなどを観て日本人凄いもっとこの凄さを生かさねばと思っている人が、同業者となると適当な理屈を立てて足を引っ張ります。舶来品を有り難がるのと国産品推しも同じ構図で理解できます。
私達が社会で生きている限り、これらの偏見を脳から排除することはできません。しかしメタ認知を使うことで、それらに支配されずに行動することは可能です。創造的な科学のためには、あるいは大きな市場を手に入れるにはといった出口から逆算するのが良いかも知れません。